日々雑感051101

禁煙30日目。
どうも、ある物語系が包含する物語可能性空間についての考察を「定本物語消費論」辺りを引用しながら書く、という、以前からの宿題を、早急に実施せねばならないようです。もりやんさまとK_NATSUBAさまと、双方からそれに関る話を振られてしまったわけですし。
後、PBMにおける構造主義的方法論のお話とか。むしろ贈与論的方法論か。
とにかく宿題が多いんですが、さて、どうしよう。

今日のリファ

「ほめ子 ワンダ×巨像」
id:walkeriさまのところにも来ていたらしいのですが、うちにも来ました。ナニはともあれ。
ほめ子 自重し ろ
ということで。

今日のURL

http://air.niu.ne.jp/rozen_maiden/after_dark.html
散文詩水銀燈スキーとしてはたまらぬ一品。水銀燈への、というか――終わってしまって取り返しのつかないものへの挽歌。
まきますか? まきませんか?

黒須ちゃん、練る(3)

http://d.hatena.ne.jp/K_NATSUBA/20051031
上記エントリへのレスです。
(関連エントリ:http://d.hatena.ne.jp/crow_henmi/20051026#1130310065
ええと。少し喧嘩腰なのが気にかかりますが、もちろんそれもまたひとつの方法論なので(僕も意図的に用いることがままありますし)真摯にレス致します。ただ、僕は今のところ真摯にお答えするつもりなのですが、これからもこの調子であれば、対応を少し考えさせていただきます。

 言うに事欠いて売れてるから正しい、ねえ。次はアンテナ登録数? PV? 流石に下品なのではないか。相手が下衆であったとしてもこちらまで下衆になる必要はない、というか、そうであればこそ誇り高くあらねばならんのと違うか。

「ロングセラーになり」と7語書いただけでこれだけ過敏になられても、その、なんだ――困るのですけど。
まず、売れているから正しい、という態度だけが、あのエントリの内容ではありません。主眼は「CROSS†CHANNEL」に、プレイヤーの欲望をライターの欲望で誘導するシステムがきちんとそなわっていると僕が感じていることを表すことにあり、売れ行き云々は、既存作品の構造を読んでの僕の所感や、田中ロミオのPBMマスター時代の業績、ユーザー層からの全般的高評価と並列的に提示されています。
また、tdaidouji氏の質問に対し、純粋に物語機構の側から説明した場合、その機構がどう作用して売れているかを、延々説明しなければならず、リソースの省略のため、あえて水準が低く見られようとも、そうした立場を取るのが合理的という判断で書きました。
ちなみに、アンテナ登録数やPVにも相応の意味はあるでしょう。それは自己の言説がどれだけ多くの人々に読まれているかを表すひとつの指標であり、「読まれること」は多くの言説において必要な事柄なので、そうした思考をする方々を、僕はそれだけで下品だと断ずるつもりはありません。
ただ、発行部数やアンテナ登録数やPVは――特に後者ふたつには――多面的な意味があり、好評価だけを反映しているわけではない、という事柄についての配慮は足りなかったでしょう。いや、後者ふたつは貴方が持ち出したもので、僕は元エントリーでは、それには一切言及していないんですけど、まあ、そういうことです。
CROSS†CHANNEL」の実際の評価に近いものを例証するなら、エロゲー批評空間辺りを手がかりに大まかな数値を出すか、より誠実には検索エンジンを用いた全web検索の旅が必要になるでしょう。ただまあ、僕が見て回った範囲内では、それなりの高評価みたいですが。

 ともよちゃんの問題意識はわかる。というかエロゲ論壇界隈の非常にオーソドックスな感覚であって、今更言われんでも、ではある。言ってしまおう。古臭い。なんか違うことゆえ。

http://web.archive.org/web/20040611142000/asciipad.at.infoseek.co.jp/0308.html#06
ヒロインによって祐一の失われた「過去」が決定するってあたりはKanonの常識のはずなんですけど。

http://www.geocities.com/lovelyaichan2000/11.html#16
「ある女の子を選ぶとその攻略対象以外の女の子は決して救われない。『Kanon』とはこの世界の現実を反映した残酷なゲームなのだ」とか言って涙するお茶目さんはそれなりに数いたように思うけど、ンなこと普通は考えないよなあ。ギャルゲー2本もやれば、そういうものだって理解できると思うんだけど。栞シナリオ内にはあゆも名雪も舞も真琴も存在すらしないのだ。

http://web.archive.org/web/20011123160251/http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Miyuki/8179/diary6.html#000216a
第二に、主人公が女の子との思い出を最初はすっかり忘れていて、デートを重ねるごとにそれを思い出してゆくという展開。これも子供時代の記憶を呼び出して「せつなさ」を演出することが主眼なのでは決してなくて、ギャルゲーの主人公(プレイヤーキャラクター)が初めは誰にも惚れておらず、プレイヤーの選択を反映して徐々に内面を形成してゆかねばならないというシステム上の制約を受けて導入された物語だと言うべきだろう(なお、そのうち論じようと思う『Kanon』はこの点に関するもっとすごい徹底化の事例だ)。

 皆様ご存知のこの辺。

全然知りませんでしたが――なにしろ「kanon」に興味のなかったころの、しかも今ではwebarchiveにしか残ってないような記事ですので――僕の立場とは全然異なっています。「可能性未来」のみならず「可能性過去」をも織り込んだ思考というのは、確かにありだと思うのですが、祐一の包含する可能性過去が、誰かのルートに入った途端消滅していることが明示されている箇所はあったんでしょうか。「WHITE ALBUM」辺りでは、ヒロインとの出会いが選択肢になっていたりすることがあり、ああなるほどそういうのもありか、と、感心させられた記憶がありますが。
それはさておき「選択されることでそのルートから抹消される過去」という考え方は、それが「WHITE ALBUM」のように明示的に提示されているのではない限り「主人公がルートによらずヒロイン全てと過去を共有する存在である」という説明より煩雑で、故に採用する理由がありません。むしろオッカムの剃刀的に排除したい説明方法です。
それゆえ僕は「kanon」に対してはそうした立場を取らないし、大半のマルチシナリオ型ノベルゲーにおいても同様――つまり、ひとつの確固たる過去と設定に基づいたキャラクター群が織り成す物語可能性系としてマルチシナリオ型ノベルゲーを捉え、そうしたものの「陰画」としての構造を「CROSS†CHANNEL」に見出したのですが。

というのを見て、ううむ、それは全然違うっていうか、それを同じと見做す立場には俺は立てないなあ、と思った。それは立ってもいいし実作するんならそっちの方が楽だったりもするんだけど、なんか、何やってるのかわかんなくなるんだよね。

というわけで、僕の考えている一般的なマルチシナリオ型ノベルゲーの構造を時間軸に沿って展開しただけなんですけど。シンプルだし、製作においても読解においても、何やってるのかわからなくなる、ってことは、余りないと思いますが。どこに引っかかられたのでしょうか?

というかまあ、そう言う考え方なら

http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20050922
確かに、作り手側が「これこそ伝えたかった真のテーマの書かれたトゥルーエンド」というメッセージを発してくることはままありますが、幸いにも私たちプレイヤー側は、別の終わり方を選択することが出来ます。バッドエンドやハッピーエンド、途中でプレイ放棄、インストールしないで積みっぱなし、体験版で終わりにして最初から買わない、全く視野に入らない、などです。マルチシナリオ、マルチエンドの方式が浸透していくことで、そうした「作り手の意図した終焉」以外の終わり方をグラデーションのようにして視野に入れることが出来るようになるでしょう。

 というともよちゃんの一番重要な指摘をスルーできるわけだ。
 そらかみ合わんわ。

いや、それについては、きちんと把握して何度か答えたり関連した言及を行ってきたつもりなんですけど。
そうした「プレイヤーの欲望あるいは欲望の欠如に基づく」様々な終焉可能性のグラデーションを捨象して「CROSS†CHANNEL」の構造論を語りたい、ということとか、それを勘定に入れるのであるとしても「CROSS†CHANNEL」は他のゲームにかなり近い終焉可能性のグラデーションを描きうることとか、そうした終焉可能性の中で「ライターの欲望」に基づく審級が「プレイヤーの欲望」を誘導してグラデーションの中心へとプレイヤーを誘うこととか――その指摘に対する、僕なりの答えや発想を書いてきたつもりなんですけど。なんなら抜粋してここに並べましょうか?
後「スルーできる」のではなく「スルーされている」のですが。かみ合わないのは、むしろtdaidouji氏が僕の答えに何ひとつまともに答えずに黙り込んで別のことを云い、思い出したように、全く僕の話を聞いていなかったような態度を取るためだと、僕は思ってます。
もうひとつ付け加えますが、tdaidouji氏の指摘は「前提として」重要であり、僕の論題そのものに直接関るものではない。いえば「常識」レベルの話で、そんなこと、彼に指摘されずともわかっている(僕はこの件について、一度たりとも否定的な文章を書いた覚えはありませんが)。だから、その指摘を踏まえつつ、問題そのものからは切り離した上で「コンプリートという審級」と、それが生み出す「意思決定の無効性」という問題と、それに対する「CROSS†CHANNEL」のアプローチを、僕なりの解釈で云々しているんですが。

以下復習。
ゲームを進めていく事によってしか、最初にキャラクターたちが置かれていた状況設定を知る事はできません。山田太郎は明訓学園に通う二年生、幼馴染の岩子、クラスメイトの殿美などと面白おかしい学園生活を送っていましたが、そこに転校生の三絵がやってきて――というような概要だけが状況設定の全てではない。太郎と岩子が激流に飲まれかけた過去があっての学園生活と、それがなくての学園生活は異なった状況設定である。そしてそのような過去の有無はゲームを進める事によって初めて知られる。

シナリオA〜xに至るそれぞれのシナリオで「AとBではシナリオが違うんだから設定も違う」ことを許容するのであれば、A〜xを包含し、それぞれを同じ世界の可能性として位置づけることが不可能となり、A〜xを包含するアトモスフィアがほどけてバラバラになってしまうようにも思えます。そうした「解体」が、製作者サイドの意図として繰り込まれ明示されていない限り、そうした見方は不合理で煩雑であるように思えます。

通常のマルチシナリオゲーで肝要なのは、ルートごとに初期の状況設定は違う事になるけれど、その状況設定同士の間に優劣がないという事です。全てのヒロインのエンディングを見る・シナリオをこなす事が必要ではないという事。
だから、マルチシナリオで、三人のうち一人をクリアすればそれでいいけれど、三人全部クリアするとオマケが見られるよ、というゲームである『AIR』を、佳乃だけクリアしてアンスコする事は正しい。女の子を一人も不幸にしなかったという意味でちょー正しい。ラブを感じる。「AIR」に入れると言う事は観鈴/美凪/佳乃への純愛を貫けなかった、うあきものの証拠ですので「過酷な日々」をぶちこまれたって仕方がない。

ノベルゲーの成立以降、一貫してコンプリートという審級が存在し続けてきたこと、それが明示的であるゲームは、特に初期の着目すべき作品に多いこと、今なお、コンプリートにより物語の全貌やテーマ表現の完成を見るゲーム、あるいはそれに向けてプレイヤーの欲望を喚起するためのオマケが存在するゲームがかなりの割合で存在し続けることなどについての評価が足りないように思えますが、これは見解の相違、ということかもしれません。
僕からすれば「必要ではない」ことと「無用であること」は全く別物で、コンプリートを欲するプレイヤーやシナリオライターの欲望が、現在もなお有力なひとつの駆動原理になっていることについて、そこまで無関心でいられる/いようとする態度のほうが、僕は不思議なんですけど。
あー。もりやんさま辺りからも指摘された「僕はこいつと添い遂げる」という欲望の方向性なのかなあ。ヒロイン一点攻略主義。僕は確かにそれもありだと思います。自分自身、魂の座に月島瑠璃子さんが座っているようなイキモノですし。ただ――それを認め、尊重するとしてもなお、やはりノベルゲーにおけるコンプリートという審級が現実に存在し続ける以上、それを無視できないし、それを無視できないと「意思決定の無効性」という概念に突き詰めれば到着してしまうのです。この辺り、僕の個人的なこだわりです。

あー、そっか、オマケの肥大化って考えりゃいいのか。
シナリオ間の設定的整合性ってのはまあ、コンプすると隠し絵が見えますよというオマケか。不純オブザイヤーか。
声・CG・整合的な設定というパッケージ内のおまけの比重がどんどんと上がっていく、と。
『ONE』の研ぎ澄まされたコンセプト性に無論我々は打ち震えるんだけど、それでもいたる絵の愛らしさに卒倒しそうになる、というのもこれは事実であって、排除は当然まあ不可能だよな。
悪いとはいわねえが。商品性の基盤に作品性の基盤が浸食されるというアレか。とすると『C†C』は徹底して商品であった、と言う事かな。だから売れた、と。ふうむ。夢のない話だなあ。ある夢見がちな方面に徹底して不評なのが頷ける。あんまりにも身内の評判最悪で怖くて手出してないんですが。

上述したように、単なるオマケの肥大化ではなく、メタ物語構造αのコンプリにおいて物語性、テーマ性の完成を見るタイプのゲームもありますが、また一方で、多くのゲームは「不純オブザイヤー」的な要素を多分に含んでいると思います。もちろん両方の要素を多分に含んだゲームも。ただ、そういう意味では「CROSS†CHANNEL」は前者の色合いが濃いと、僕は考えています。