タブララサと紋様二態

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E9%81%8E%E5%84%80%E7%A4%BC
通過儀礼発達心理学から連想。
タブララサとしての心に経験が書き込まれること、無垢で全能な自己が傷つくことで自我が象られていく。人の心はそれぞれ違った疵により描かれた文様であり、それが通過儀礼としての刺青――大人として認められるために身体に刻み込まれる紋様というのと相同性をなしていて面白いなあ、と思った。そこに「痛み」が介在することも含めて。
それで、人は自分と似た紋様、自分と似た痛みを持つものには寛容であり、そうでないものには非寛容である、というところに連想が飛ぶ。何かの弾みで人と著しく異なった紋様を刻み込まれたもの、あるいは紋様の重要な一部が欠けている人間は、ストレンジャー、異物として忌避される。そうしたものたちは一体どうすれば良いのだろうか。刻み込まれたものは容易に消すことができない。倍する痛みを伴って紋様を彫り直すべきなのか、それともそのまま生きていくべきなのか。いずれにせよ苦痛は付きまとう。なるほど生きるということは常に苦痛と共にあるということなのだ。どう埋め合わせするかは、結局は個々の問題となるが。

日々雑感060430

知人宅でゲームとアニメ観賞。徹夜で帰宅。
カタンで手札がバーストするのを恐れて文明カード買いすぎるのもどうかなと思った。全体にコストパフォーマンスはいいのだけど、長期戦を考えた場合発展を遅らせるのはよろしくない。それでも2位だったのは文明カードのパフォーマンスの良さゆえで、重要であるのは間違いないけど。
アニメ。ひぐらしアニメ版はぼく的にはだめっぽい。原作の叙述トリックとか重要な伏線とか、ひぐらしを成立させるための要素を脚本や演出が支えてないので、ただのサイコホラーにしか見えないし、怖さの深度もいまひとつ。あの演出でひぐらし初見の人間が圭一の主観を疑えるか。あの得体の知れなさが再現できているか。答えは否。まあ、ひぐらし好きな人がついでに見るならこれでもいいけど、単体の作品として見ると辛いなあ。原作のダイジェストとしてすら成立していないように思える。

メモ

よつばと!」の最新刊を買って読んでいたのだけど、みちアキ氏のエントリを読んだら、よつばがADHD児にしか見えなくなって大変困った。まああの作品がある種の悪意や無関心を意図的に排除したアトモスフィアを構成していて、だからあのように幸せな物語を続けられるのだという指摘には賛成するけど。

ツンデレと素直クールと(メモ)

ツンデレ素直クールは主人公とヒロインとの関係性において主客逆転した構造だと思った。ツンデレものでは素直じゃないヒロインに対して素直な主人公がアプローチを仕掛ける、という関係性が多く見られるが、素直クールものではそれが逆になる、というような。物語駆動力の主体は主に素直である側に存在し、素直じゃない側はそれに引きずられる形で心を開いていく。とか。もちろんこれには多くの例外があるので、あくまでツンデレ素直クールにおける一類型ずつの対偶というに過ぎないのだけど。
他の類型としてはこんなのが上げられるだろうか。

  • 主人公:ツンデレ/ヒロイン:ツンデレ
    • なにかと衝突してすれ違うけど困難を乗り越えて愛情を深め合うパターン。
  • 主人公:素直クール/ヒロイン:素直クール
    • 単体だと異様に順調に事が進むので、外在する困難を協力して乗り越えて愛情を深め合うパターン。

とか、まあほかにも程度の差でいろいろなバリエーションがありえる。個人的に主人公がツンデレなのは好きなパターン。
とか考えてみたけど、全然甘いなあ。
主人公とヒロインの基本性格は大雑把に云っても素直=ツンツン、気がつく=朴念仁、クール=熱血とか多次元で表されるわけで、二元論的な切り口では甘さが残る。この辺り課題。