樹木が示す情緒的な死と再生――「kanon」におけるコスモロジーと少女主義――

先日「なぜ泣きゲーではしばしば樹木が奇跡の象徴として登場するのか:Key『Rewrite』を見すえて」という問いが投げかけられていたので、少しレスなどしてみる。
樹木は、エリアーデにおいては世界の中心、フレイザーにおいては生命ならびに生と死の時間的サイクルを表すものであるとされる。ゆえにそれは、ある閉じたアトモスフィアの中において生と死のサイクルを描き出す「泣きゲー」というジャンルにおいて、最重要の神話的表象――物語の基点や収斂点として機能しうる。と、大雑把に云えばそうなる。*1
では、具体的にはどのように機能するのか、Key「kanon」を題材として解説したい。これはほんの一例であり、実際にはさまざまなあり方が考えられるが、「樹」と「奇跡」が緊密に絡み合っている作品であるので、これに関して考察する際に何らかの知見は得られると思う。
kanon」における丘の上の樹は、当ゲームのメインヒロインたる月宮あゆシナリオにおいて物語に密接に結びついている。祐一とあゆが共有する幸せな過去とその喪失、そして奇跡による幸福の回復という局面において、樹は重要な概念としてある。ただ、この樹はゲーム内時間現在においては切り株=痕跡のみの存在となっている。これはあゆシナリオ、ひいては「kanon」という物語の基点が喪失から始まっていることと、その主体であるあゆの生が一度象徴的に喪失されていることを指す。その喪失は、主人公とヒロインの関係性が過去へと押しやられることによって発生する、不可逆的なものである。
しかしその喪失は単なる喪失でなく、樹が表象する「死と変容による再生」のモチーフを経ている。それはハイヌヴェレ型神話類型に相当する。ハイヌヴェレは死して作物を残し、あゆは仮死によって奇跡を残す――より正確には「奇跡を必要とする条件」を作り出すことにより、物語内部に奇跡を導入する契機を導入する。ただ、豊穣の化身であるハイヌヴェレとことなり、唯人であるあゆが生み出す/導入する「奇跡」という力は、「喪失」というマイナス方向の意味性――欠如に担保されたものである。それゆえに、他者に奇跡が用いられる際は、あゆはその代償としての欠如を背負い続けなければならないし、そうでない場合は、何らかの形で決済されなければならない。
欠如が生み出す奇跡を決済するためには、その欠如を埋めなければならない。それを埋めるために存在しているのが、あゆシナリオにおける祐一とあゆの恋愛関係であり、恋愛という象徴的な生を通じてあゆは「死と変容」のステージを通過して現世へと帰還する。これはある種の通過儀礼であり、樹がもたらす「生と死の変転」の一局面として表現されていると云えよう。その過程の大半において、樹は隠蔽されているが、これは「欠如」を見据えて克服するために必要な関係醸成を優先するためである。一方、クライマックスにおいて、世界の中心であり、喪失の場所である「樹」が――正確には「樹」の痕跡が舞台となるのは、極めて自然なことといえるだろう。
目覚めたあゆは、事故を起す以前のあゆとも、欠如による奇跡の媒介者であったころのあゆとも異なった存在となっている。具体的には少女から女性への変容。聖性から実体を持った性=生への移行が行われているといってよい。しかし、keyは少女愛的観点からそれを正面切って書かず、聖性を持つ少女が実態としての生を生きる少女に変化したものとして書いた。key的世界観において、女性とはすなわち母であり、そこに至るまでの存在は少女でなければならない。少女から母への変容を一気に描くことができない以上、少女性の変容として描かざるを得なかった、ということであろう。

余談1

なお、CLANNADの風子、汐にもこの図式はある程度当てはまるのだが、まあそれはさておく。

余談2

このkanon解釈は「奇跡があゆによって導入されたひとつしかない」という解釈であるため「奇跡がありふれた存在としてある世界観」という、一部のkanon解釈と真っ向から対立する上「誰かが助かれば、それ以外が助からない」という筋の悪い論理を補強するものになっているので、kanonの解釈論としてはアレげなのは認めておく。ただ、樹の表象するものとあゆシナリオを中心に置いた場合、このようにも読めるということである。
しかしなぜkanon解釈論において「「kanon」は誰かが助かれば、それ以外が助からないという、筋の悪い選択を強要するクソゲーである」という解釈が存在しなかったのかは謎――じゃないな。そういうクソゲーとして切り捨てるにはkanonは魅力がありすぎるのだろう。

*1:実際のところ、必ずしもこの構図が当てはまるわけではないのだが。