ポストモダン社会におけるレスポンスビリティと決断の倫理

「ポストモダニズム系リベラルの世界も大変だ - 過ぎ去ろうとしない過去」を読んで思ったことなど。
おそらく、レスポンスビリティは「趣味」の問題としても発生しうる。あるものが声を上げたとき、それに対してどう振舞うかを決めるのは趣味であろうとなかろうと究極的には自分だ。そこには決断という自己決定がある。その意味で、決断とは倫理の問題ではないだろうか。
決断を行うこと、それを再帰的に展開していくこと、あるいはそれを途中からコミュニケーションの様相に応じて変化させていくこと、そしてその結果を引き受けていくこと――それはやはり「趣味の問題であろうとなかろうと」ひとつの倫理なのだ。それゆえに、けして「趣味の問題」などというカジュアルな言葉で切り捨てるわけにはいかない、独自の深刻さと戸惑いというのがポストモダン・リベラルにはある。
その深刻さと戸惑いとは、とりもなおさず自己が無根拠の中から何かを選択しなければならないという状況の深刻さと、それに対する戸惑いだ。人は確かな基盤の下に正しく生きたいのだが、その正しさが揺るがされ/見失われているとき、何かを決断するということは、いずれにせよなにがしかの「永遠の嘘」に加担することだというニヒリズムと、にもかかわらずそれに加担しなければならない/させられてしまわざるをえないというシニシズムだ。*1
それを知りつつ、なおも何かを選択することの困難をどう乗り越えるか。その問題はおそらくニーチェに接続される。しかし問題はそうした個人的「倫理」にとどまらず、「リスク」の問題をも含有する。倫理的無根拠ならず行動結果の不明瞭性までにさらされてなお、人は決断しなければならない。それは大きな危険を伴う。
そのような決断にまつわる困難と危険を緩和するために、動態的コミュニタリアニズム――すなわち決断の再帰性を時空間的にリセットしうる/つねに小さな決断をもって自己を修正し続けることを要請するシステムがありうる。これはポモリベの問題提起に対するひとつの定型的回答だ。常に、なおかつ相互に小さなレスポンスを行うことで、無根拠の時代の不確かさに沿った柔軟な生き方をすることが、ひとつの回答であるようにも思える。しかしそれは、超越論的正しさを再復することではなく「より正しそうな」方向への柔軟な舵取りに過ぎない。
ただ、これはポストモダン的状況を受け入れるという前提にあることであって、現代はまだ過渡的な状況にあると思う。ゆえに、旧来の――近代的な「知」の方法論に基づくこともまた可能である。この過渡的な状況が、ポストモダン・リベラルと近代リベラリストとの間に認識の相違を生むのだと、ぼくは思っている。

*1:消極的な形で加担させられてしまう――「動物化」という形で状況を受動的に受け入れてしまうことも、ここに含まれる。