自己の限定性との対峙――あるいは「罪」と「赦し」について

序文

このエントリーは、主にTRPGというジャンルにおける意思決定と倫理について先にupしたコヴェントリー・ジレンマから考えるTRPGの遊戯としての可能性の続編であり、AGS「傷だらけの偉大な負け組に捧ぐ:「役割演技式競技」における「ヒーロー」とは何者であろうか?」及び、「戦略の迷走:『空の境界』と『キラーエンジェルズ』の場合」への補論として書かれたものである。
このエントリーにおいては、主にTRPGにおけるプレイヤーの意思決定について語っているが、その方向性は人間一般の意思決定に関わる倫理にもある程度敷衍しうることを織り込んでいる。TRPGというジャンルについてご存じない方も、ある種の意思決定に対しての倫理性を語ったエントリとして読んでいただければ幸甚である。

本文

意思決定の時間性、あるいは限定性の回避について

まずは、人間の意思決定というものがどのような時間性に縛られているかについて、自分なりの見解を述べてみよう。
先のエントリーで、コヴェントリー・ジレンマについてのいくつかの脱構築案を提案したのだが、そのすべてが設問の情況の外側に脱構築の視点を持つものであった。これには明確な理由がある。というのも、ある意思決定はその前段階の準備という意思決定によって限定されるからだ。そして前段階の意思決定も、さらに前段階の意思決定によって限定されている。我々は常に「以前の意思決定」によって限定された状況下でしか現在の意思決定を行うことができない。*1
つまり、ある意思決定段階における多くのジレンマや詰みという情況は、まさにそれ以前の意思決定によって生じた限定性故に、その局面において十分なリソースや函数を用意出来ていない故に生じる、ということだ。
例えば、ナチス・ドイツソ連侵攻「バルバロッサ作戦」においてドイツが勝利し得なかったのは、それ以前の意思決定――対ソ戦に向けた軍需生産拡大の不足や兵站計画の杜撰さなどに多くを依拠している。あるいは、ゲティスバーグでの南軍の敗北は、会戦3日目の北軍中央部への無謀な突撃にあるとされるが、その無謀な突撃を招いたのは、1日目でユーウェル軍団が北軍右翼を突破可能であるにもかかわらず躊躇し、北軍ゲティスバーグでの防御を可能ならしめたこと、それによって生じた会戦2日目において、北軍左翼を攻撃するというリーの意思決定に対し、南軍右翼を指揮するロングストリートが反対し、半ばサボタージュめいた戦闘準備の遅延を引き起こしたため、結果として北軍左翼を突破し得なかったことなどの意思決定上の失敗が積み重なり、勝利のためには半ば無謀な中央突撃しか選択肢が残されていない状態になったからである、といえる。3日目のリーとロングストリートの激論は史実において有名だが、すでにこの時、1日目と2日目の失敗によって勝利の目はほぼ完全に消えていたのだ。
このような限定性が、中長期的な見通しによる段階戦略を必要とすることの根拠となる。つまり、最終目的を達成するための意思決定の際に、必要なリソースと函数をそろえておくため、そこから逆算して可能なかぎりの準備を行い、正しくかつ有効な意思決定を行うことが必要であるといえるのだ。
先の例で云えば、ドイツ軍はバルバロッサ作戦の目的であるソビエトの撃滅のため、その最終決戦ラインとなるアルハンゲリスク=アストラハン線まで到達するために必要なリソースや函数を、1940年の段階から蓄積/用意しておくべきであったし、その後の作戦段階においても、常にそのリソースが最適に用いられるよう兵站計画と運用を徹底すべきであった、ということになる。また、ゲティスバーグにおいては、1日目の攻撃失敗の原因になったユーウェルへの行動制限をもっと柔軟なものにしておく、あるいは2日目においてロングストリートの独断癖が生み出したサボタージュを阻止するための何らかの手を、それ以前に打っておく必要があった、ということになるだろう。*2
ちなみに、これを時間的連続性から時間的並列性に開くと累積戦略となるが、いずれにせよ最終目的達成のために、それに先んずる意思決定によって最終目的達成のための意思決定可能性を担保するという構造には変わりはない。

絶対的な限定性との対峙(1)――罪と赦しの相補関係

しかし、それらは中長期的な意思決定の連鎖をグランドデザインできる立場の存在においては義務とすら云えるが、そのような高度な権限や手段を持たない、既に決定された事柄に基づいて現場の意思決定を行わねばならぬ存在――バルバロッサ作戦においてモスクワ攻略に失敗したドイツ軍の前線指揮官たち、あるいはゲティスバーグで自らの率いる部隊を壊滅させてしまったアーミステッド准将など――や、そもそも最終目的達成のためのハードルが高すぎて、例え順次戦略の各家庭で最適の決断を選んだとしても、その過程で多くの罪過を甘んじて受けとめねばならない――南軍におけるリー将軍のような立場の人間にとってはなんの役にも立たない。彼らは往々にして、既に決定された過ちのもと、ジレンマに晒されながら、高すぎる目標に向かい、これまでの犠牲の価値を問いながら、それでもなお「意思決定」せねばならない。その結果がいずれにせよ悪であろうとも、選ばないということは不可能なのだ――いや、選ばないということすらその現状における意思決定とされてしまうような限定性に晒されてしまうのだ。
このような存在は「いずれも悪である決断を迫られ、それを否応もなく引き受けさせられる」ものであり、そこにおいて倫理的責任を問うのは過酷に過ぎる。ゆえに、そこにおいては「緊急避難」などの論理が介在し、彼らを「悪であることを押し付けられた/引き受けさせられたもの」であるがゆえに赦すという処理がなされる。彼らは望んで悪を犯したものでないが故に、その悪の責任は別の場所で既に決定されたこと/決定したものにあり、それゆえに彼ら自身は許されなければならないのだという論理がそこにある。
もしこの「赦し」がなければ、世界の限定性に翻弄される我々ひとりひとりはすべて悪であり、断罪されるべきものとなるだろう。むろんこの「赦し」は、個人レベルでの意思決定において相応の努力を行った人間のみに与えられるべきものであり、無制限ではないが、それでもなお、我々にとって大きな救いとして存在している。
故に。もしTRPGにおいてマスターが「既に決定された情況」に基づいて決定的なジレンマをプレイヤー/キャラクターに突きつけるのであれば、それに対する「赦し」をどこかにおいておかねばならない。そしてプレイヤーが苦悩の果てに選択したことに対する返礼として、その選択に見合った「赦し」を与えなければならない。それがないジレンマの提示は、単にプレイヤーに不快と無力感を与え、モチベーション的にも道義的にも退廃した態度へと容易に頽落させてしまうだろう。
あるいは。ジレンマそのものを飲み込み、悪を自らに引き受け、その罪を自覚しながらも、赦されることなく我が道を進み続ける覚悟と態度というものを、ロールモデルとしてプレイヤーが引き受けることもありうるかもしれない。しかしそれを「強制」してはならない。もし強制すれば、それはやはりプレイヤーのモチベーションと道義に悪影響をおよぼすだろうからだ。

絶対的な限定性との対峙(2)――世界精神型悪役の現前

このような前提を置いたとき/あるいはあえて悪を引き受けることをプレイヤーが望んだ時、初めて行える物語ジャンルとして「世界精神型」悪役が駆動するシナリオがある。
世界精神型悪役とは、伊藤計劃によると次のように定義される。

世界精神型の悪役とは何か。世界、とは我々の世界でもあり、また映画の説話全体でもある。そして映画を監督が支配する(ということにしておいてください)以上、世界精神型の悪役という言葉は、監督が創造した世界の代弁者もしくは映画そのものの演出家という審級を与えられることになる。映画そのものを演出する映画内キャラクター。つまりは映画内における監督のキャラクター化だ。
(中略)
世界に認識の変革を迫るヴィジョンを演出することで、ある事物の本質を抉り出すことそのものを目的とし、どんな現世利益的な欲も動機や目的にはしない、そんな悪役。世界を支配するのでもなく、政治的な目標を達成するのでもなく、金をもうけるのでもなく、ただある世界観を「われわれ」の世界観に暴力的に上書きする時間を演出する、それだけを目的とした悪役たち。それが「世界精神(ヴェルト・ガイスト)型」の悪役(というか、敵役、と言ったほうがいいのかもね)だ。
(中略)
ある物事を主人公たちに見せつけることそのものを目的とし、その見せ付ける過程が映画になってゆく、そんな悪役を「世界精神型」と呼ぶ。
http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/20070702#p1

「セブン」モーガン・フリーマン演じるサマセットがブラッド・ピットに言う。われわれ(刑事)は、ただ証拠品を集め、証言を集め、整理してファイルし、あるかもしれない裁判を待つだけだ、と。「セブン」はただ、ジョン・ドウが死体を使って描き出す世界像の現場を、刑事達がひとつひとつ見てゆくだけの映画だ。あの映画にアクションは無い。主人公達が物語を動かす余地はゼロだ。物語は世界精神たるジョン・ドウによってすでに用意されており、主人公達はそれを見て観客に報告する狂言回しとならざるを得ない。主人公らは単なる観察者でしかなく、「世界」に関わろうとしても世界はただ見つめることだけを強要し、見つめることで主人公達の人生はねじまげられてゆく。
(中略)
「世界」を前に、人間はいかにも小さい。世界が悪意として立ちふさがったとき、人間の人生はいともたやすく捻じ曲げられてゆく。
http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/20070710#p2

このような悪役によって駆動されるシナリオは、プレイヤーの意思決定をことごとく無効化し、マスターの提示する世界観の観客という立場に固定してしまう。そして「すでにすべてが決定されており、プレイヤー/キャラクターの行動はことごとく手遅れであり、ジレンマの果てにいずれにせよ悪を背負い、その絶望を満喫させられる」というマゾヒスティックであるが極めて特異なロールプレイ体験をもたらすことだろう。
それは本来苦痛でしかなく、プレイヤーを歓待するという点においては最悪の方法論である。*3しかしながら、伊藤計劃がここで書いたような作劇手法は、ある種の「リアル」――現実に対する人間の決定的な限定性を剔抉している。TRPGというゲームジャンルがこのような作劇に不向きであることは明白であるが、全く無力で表現可能性を持たないということはないし、あってはならない。人間の総合的な体験のシミュレーションとしてTRPGは存在しうるし、その上でこのような「リアル」が描き出されることに対して挑戦することもひとつの表現としてありうる。
では。このような「リアル」を描きつつプレイヤーのモチベーションと道義をいかにして維持するべきだろうか。それこそが、先に述べた「赦し」と「覚悟」である。決定的な限定性の中で、なおもそれに全力で抗ったものへの「赦し」をマスターがプレイヤー/キャラクターサイドに何らかの形で与えること、そしてプレイヤー/キャラクターサイドが、その限定性が必然的に生み出す悪を引き受け、背負っていく「覚悟」を持つことのいずれか/双方が整ったとき、はじめて「世界精神型悪役」が駆動する、人間の絶対的な限定性を描き出すシナリオが物語体験として有意義なものになるのだ。

補論・上条当麻の場合

ここまで、意思決定においてジレンマや失敗に繋がるのはそれ以前の意思決定によって現在の意思決定が制限されているためである、という話を散々述べ、なおかつそれをいかに回避するか、あるいは回避できない場合どのようにして受け止めるかについてつらつらと書いてきたが、そこから挽回するために「まさに今」どうするか、ということについては書くのを後回しにしてきた。これについては、まだぼく自身が明確な結論を見出していないためである。
しかし、そのような方向性へのヒントとしては「とある魔術の禁書目録」における上条当麻のマニューバーが大変参考になる、とメモしておこう。彼は煮詰まった情況を一度呑み込んだあと、そこから演繹的に引き出される間違いを「破却」し、自分という新しいリソースを持ち込み、上条さん説教により関与する人物たちの価値観という函数を新たに置き換え、情況をゼロから再構築し、正しい道へと帰還しようとするのである。これにより上条さんが関わった相手の「これまでの罪」は、今現在という新たな段階から「正義」の構築へと立ち戻ることで「赦し」を得ることができるのだ。
とはいえ、じつは禁書は全然詳しくないのでとても断言はできない。これについては、より詳しい人の知見を待ちたいところである。

追記

http://d.hatena.ne.jp/koutyalemon/20101212/p1
レスポンスありがとうございます。
クラウゼヴィッツの「摩擦」概念は意思決定において大変重要な概念ですが、「他にどうしようもない」というジレンマを際立たせたところにどのような倫理的な態度と救いがあるか、ということについて書きたかったので、あえて無視したところです。その摩擦がもたらす不透明性がジレンマの代わりに別の問題――すなわち盲目の希望をもたらすことについても、何らかの形で触れなければならないでしょう。

*1:ちなみに我々は「自らの意思決定」のみに限定されるのみならず、他者の意思決定にも限定される存在であるのだが、問題の抽象化のために捨象しておく。

*2:ロングストリートは極めて優秀な指揮官であったが、それゆえに独自の意見を持ち過ぎ、リーの副将としては不的確であった側面が確かに存在している。

*3:無論、道義的マゾヒズムを味わいたいプレイヤーもいるだろうが、意思決定>目的達成というプロセスをTRPGの基本的スタイルとしたとき、それはやはり異端的である。